Ailes Grises

命を大事にしな

諏訪ななかちゃんと最近の僕

不定期連載「諏訪ななかちゃんと最近の僕」スタートです。


最近、何をしていても、何を考えていても、ちょっとしたタイミングでスマホを見たり、PCのデスクトップ画面を見たりして、そこに映っている諏訪ななかちゃんの壁紙画像を見た瞬間にそれまでのことを忘れて諏訪ななかちゃんがかわいいという感情に脳が支配されてしまうような、そういう感じの生活になっている。

特に通勤中や仕事中などはスマートフォンを何となく眺める時間が多く、それだけ諏訪ななかちゃんかわいいとなる時間の比率が増えていき、日に日に諏訪ななかちゃんが好きすぎてつらい気持ちが深まりつづけている。

とにかく諏訪ななかちゃんの顔を見るのにハマってしまい、ブロマイドもヤフオクでできるだけ集めたし、いつの間にか捨てていた雑誌とかも買い集めた。電子書籍でスクショ取れるやつは全ページ画像保存したし、電子書籍化されていないものはスキャナを買って、スキャンして保存しようと思っている。

それくらいのやつが来ている。感覚としては数年に一度あるかないかくらいのやつだ。

この気持ちをどう消化したらもよくわからない状態になっている。だからとりあえずブログにアウトプットしておこうと思ってこうして記事を書いている。

Twitterにも本人へリプライすることは愚か、諏訪ななかちゃんかわいい、好き、という単純な日本語すらも投稿するのが恥ずかしくなっていて、これが歳をとったからなのか、別の理由からくる恥ずかしさなのかはよくわからないのだが、とにかくこう、悶々した気持ちを抱えている状態。

最近はファンレター書こうかなと考えたりもするが、考えているだけだ。

だいたい勢いで書いてもしょうがないし、伝えたいことが明確になってから書いたほうが良いと思う。

勢いで書くのはブログとtwitterだけにしたい。誕生日には多分何か書くとは思うが。

大学生とかならまだしも30にもなって(今年の10月14日で30歳になる)、まじかよ俺、みたいなのも正直ある。

30にもなって、上京したての暇な大学生が何となく見始めた動画付き声優ラジオをきっかけにして、毎日伊藤かな恵ちゃんかわいいだの好きだの結婚したいだの言い始めるのと大して変わらないような展開が繰り返されており、あまりにも何も変わっていなさすぎると感じる。

普通は色々と落ち着いていくものだと思うし、実際昔に比べると落ち着いたなあと感じる知り合いが多い。今でも元気な人もいないことはないが、それはそれだ。

そういえば、諏訪ななかちゃんのファンになる前からブログはこのデザインに変えていたと思うが、果南のイメージカラーそのものだ。これが運命力というやつだろうか。


最近の諏訪ななかちゃんの写真。特にこれが気に入っている。

思うのだがやはり自撮りより人に撮ってもらった写真のほうが良いと思う。全身を使った可愛いポーズを撮ったほうが可愛いに決まっている。見ろ、このかわいいダブルピースを。

いやそんなのは適当に今思いついてこじつけた理屈なのだが、とにかく両手でピースとかしてるほうが可愛いと思う。独りで撮るより誰かに撮ってもらったほうが自然な笑顔にもなりやすいのではとも思う。

SNSで自撮り公開してポイント稼ぎする声優も多い中、これだけの美貌を持っていながら全く自撮りを撮ろうとしない所も良いと思う。

周りがどうだからということは関係なく、撮ろうと思わないから撮らないだけ、な気はするが。


最近は諏訪ななかちゃんのかわいさで頭の中がいっぱいの状態から少しだけ理性を取り戻して、諏訪ななかちゃんの好ましいところとは何だろうということも考えられるようになってきた。

上で書いた自撮り撮らない件にも関係するが、自由気まま、マイペースという所は確実に個性であり自分としては大きな魅力だと思っている。

色々あったが(色々あったから)、僕は声優には「自由」であってほしいと今では思っている。

声優として、夢を与える職についている人として、取らなければならない正しい姿勢などを求めるつもりはないし、そういうものに従う「良い子」である必要もないと思っている。

諏訪ななかちゃんに将来こうなってほしいという具体的なイメージは当然僕の中にもある。それは好きである限り消えないものだろう。好きだということは目の前にいる子猫がかわいいと感じるそれとは違い、今の状態が好ましいと思うことももちろん、これから先のことへの期待も止まらないという状態だと思うからだ。それがないならば目の前にいる子猫と変わらないということになるだろう。

目の前の子猫はめちゃめちゃかわいいし、それだけで人類よりも価値ある存在なので、そこは念の為フォローしておくが。

しかし、そのような期待に反するときが来たとしても、「間違った」道を進んでいるとは考えない。その逆に、自分の期待通りの活躍をしてくれた時も、「正しい」道を歩んでいるだとか、自分の見通しが「正しかった」とも考えるつもりはない。

ただ、僕という個人が気持ちよくなれることを、偶然にも諏訪ななかちゃんがやってくれている/やってくれていない、ただその事実があるだけだ。

結果として僕が気持ちよくなれるのであればそれに従い気持ち良くなるだけだし、何も感じない、あるいは不快と感じる場合はただ去るのみだ。

自分語りが長くなりすぎてしまった。つまり、以上のような僕個人の信条からしてみると、諏訪ななかちゃんの自由奔放、勝手気ままな振る舞いは理想的に見えるということだ。

空気を読まない、発言すべきところで発言しない、楽しそうな態度を取らない、声オタが気持ちよくなれる言葉を用意する気がない、そういう、普通に考えればおかしいとかけしからんとかつまらないとか考えられるような振る舞いをしてくれればしてくれるほどに、僕は気持ち良くなってしまうし、気持ちよくなっている自分自身に喜びを感じてしまう。こういう子を好ましく思うことが出来るようになっているのだと。

空気を読まないというところだけではなく、諏訪ななかちゃんの自由さというのは歌にも現れていると思っている。

歌が下手に聴こえることをもって自由である、というつもりは無い。

ただ、あれだけのプロフェッショナル集団の中において、ただ独り歌唱力、表現力などといったものから解き放たれた自由さを感じるのだ。そう感じるとしか言いようがない。

そしてこれは偶然なのかもしれないが(正直個人的には偶然には思えないのだが)、「さかなかなんだか?」という果南のソロ曲の内容は、僕の考える諏訪ななかちゃんの自由さそのものを表しているように感じて、この曲を初めて聞いたときのショックは結構なものだったし、この曲の本人の歌唱をライブで見たときはそれ以上の衝撃だった。

果南はむしろ色んなものに縛られて身動きが取れなくなっていた人間で、であるからこそ、この曲では果南を縛っていたものたちからの解放と、常に難しい顔をしていた頃の果南とは違う、本当に解き放たれた果南の心情を歌っているもの、であるとは思うのだが、それにしても僕には諏訪ななかちゃんのことにも重なって見えて仕方がなかった。


諏訪ななかちゃんの良いところは他にもあるが、そろそろ書くのに疲れてきたので今回はこの辺にしておく。

今回はいい話だけしか出来なかったが、暗い話も用意している。

用意できるような状況になってほしくはないが用意できてしまうので用意する。

次回もお楽しみに。